2008年04月15日

私の好きな「怖い話」

タイトルで引かないで下さい〜

実は怖がりなくせに怖い本を読むのが大好きな私です

こないだ、昔読んだ短編をちょっと読み返してみたんですが、それは「猿の手」という話でして

有名な古典ホラーなのでご存知の方も多いと思うのですが、あらすじはこんな感じです

とある田舎町に住む老夫婦とひとり息子の家に、知り合いが訪ねて来ますこの知り合いは昔インドで手に入れた「猿の手」を持っているのですが、これが「三つの願いが叶う」といういわく付きの代物なんですね

知り合いはもう要らないと捨てようとするので、譲り受けた老夫婦の息子が冗談半分に200ポンド(だったかな?)を猿の手に願うんです

翌日、朝起きても家の中にお金が出現している訳でもなくて「なあんだ、やっぱり迷信だったのかも」みたいに思っていた老夫婦の元に、息子が勤め先で事故死したという知らせが届きます。
そして、勤め先から見舞金として200ポンドが・・・

老夫婦は驚き、悲しみ、そして妻の方が再び猿の手を取り出すと「息子が帰って来ます様に」と願ってしまいます

その日の真夜中、嵐が吹き荒れる中、老夫婦の家のドアをノックする音が響きます
妻は「息子が帰ってきた!」と急いでドアの錠を開こうとするのですが、夫はドアの向こうにいる「何か」に恐怖を抱き、夢中で猿の手を掴むと「息子を家に入れないでくれ!」と叫びます。
ようやく錠を外した妻がドアを開くと、その向こうには・・・

吹き荒れる風と雨の中、ただ闇が広がっているだけなのでした

・・・という様な話で、あらすじだけだとこの怖さが伝わらないと思うので是非原作を読んで頂きたいと思うのですが
この話を、私は多分小学生位の時に父親の持ってた「世界の怪奇小説」みたいな本で読んだのが最初だと思うのですが、以来ずっと心に残っています

それと同じ位に好きなのがスティーブン・キングの「ペット・セメタリー」
これは映画にもなりましたね

ある家族が引っ越してきた土地には「ペット・セメタリー(動物霊園)」と呼ばれる場所が有って、そこに亡くなった動物を埋めると甦ってくるという言い伝えがあるんです

ただ、生前とは性格が変わって邪悪な心を持った存在として甦ってくるのですが・・・

最初はそんな言い伝えを信じない家族ですが、可愛がっていた猫が死んでしまい、信じないと言いながらペットセメタリーに埋めてしまいます。
すると、亡くなった猫とそっくりな猫が戻ってくるんです。でも、性格は全く変わっているのですが

その後、この家族の子供が母親の目の前で事故死してしまうんですね
悲しみに打ちひしがれた母親は、父親が止めるのも聞かずペットセメタリーへ・・・

・・・ここから先はネタバレになっちゃうので書きませんが、本当にホントーに怖いです

実はこの二つの話が好きなのには理由があるのですが、それは長くなるので興味のある方だけお読みください
で、どうして私がこの二つの物語を忘れられないかと言いますと、それはこの二つの話にはどちらも「愛する者の喪失を受け入れられるか」という事が書かれていると思うからなんです

愛する相手が死んでしまうというのは、何よりも辛く悲しい事ですよね。
それを受け入れるという事は、時として不可能に思える程に難しい事なんだと思います。だからと言って、「猿の手」や「ペットセメタリー」に甦りを願ったとしても、それは決して許される事ではなくて、生きていた時そのままの相手を取り戻す事は永遠に出来ないのだ・・・という事を私達はどんなに辛くても受け入れなくてはいけないのでしょう。

それは時間が掛かるかもしれないし、激しい心の痛みを伴うかもしれませんが、それでも私達は自分自身でそれを乗り越えなくてはいけないという事なんだろうと思います。

この間テレビを見ていたら、動物の言葉がわかるという人が出ていました
災害に遭って避難する時に心ならず飼い犬を置き去りにし、辛い思いをさせてしまったことをずっと悔いている飼い主さんに代わって、その犬と話すという様な企画だったのですが、「飼い主の事を恨んでいない」「むしろ飼い主の怪我を心配している」「でも今でも災害の恐怖と心の傷は癒えない」という様な事を犬に代わってその人が話すんですね。

飼い主さんは、愛犬の辛かった体験を聞いて泣き、自分を恨んでいないと聞いてまた涙・・・スタジオのタレントさんも大泣きという展開でした。
視聴者も皆感動しなさいよ、という作りにちょっと違和感を覚えてしまった私です。

確かに、その事でずーっと悩み苦しんでいた飼い主さんの辛さが少しでも軽くなるのは良い事なのかもしれません。私も、飼い主さんが自分を責める心から解放されて、愛犬と幸せに暮していける事を心から祈ってやみません。

でも、もしも私だったら、それで自分を許す事ができるのだろうか?と思うんです。

流行のスピリチュアル何とかさんが出る様な番組でも良くこういう場面を見るのですが、いつも何かが引っかかってしまいます。私が素直じゃないのかもしれないのですが・・・

例えば、亡くなった家族の霊と対話して「今はもう苦しんでいないから自分の事でもう苦しまないで欲しい」とかいう言葉をスピリチュアル関係の人の口を借りて聞いたとして、それで全ての苦しみから解放されるのだろうか?と思ってしまうんです。

愛する者を失うのは、本当に本当に辛い事です。
大切な相手を失った時に私達は「もっとああしてやればよかった」と後悔したり「どうしてああしてやれなかったんだろう」と自分を責めたり「何故自分だけが生き残っているのだろう」と罪悪感に囚われたりします。

愛する者の喪失を受け入れるまでには、すごく辛く悲しく長い時間が掛かってしまう事もあります。人によっては何年も何十年も、一生かかってしまう事もあるのかもしれません。
でも、それはきっと失った者への愛情が深いからこそだと思うんです。
だから、どんなに苦しくても、どんなに時間が掛かっても、それは亡くした相手への愛情をひとつひとつ自分の中で昇華させていくプロセスの中で必要な事なのではないでしょうか。
そしてそのプロセスは自分自身にしかできないのじゃないかなぁ、と私は思うんですよね。

そのプロセスの中で、どうしてもどうしても「霊のことば」みたいなものが必要だと考える人もいるのかもしれません。
けれども、昨今のスピリチュアルブームみたいに、全ての人がそういうもので癒されたり自分を許せたりするとは限らないのだと思います。

遠藤周作の「沈黙」という小説がありますよね。
破戒の苦しみに悩み迷う宣教師の問いかけに、神は沈黙しています。
初めて読んだ10代の頃は「どうして神様は自分を信じろと言っておいて、迷った時には何も答えてくれないんだ!?」と非常に矛盾を覚えたものですが、今はちょっと違う見方をする様になりました。

神様の「沈黙」が答えなのかもしれないな、と思うんですよね。
どんなに苦しくても、自分で悩み苦しんでたどり着いた答えでなければ、人は救われないのじゃないかなと。その過程を省略して誰かに霊や動物の言葉を代弁してもらっても、私は答えには辿り着けない気がするんです。
私はどの宗教にも特別信仰心を持っていませんが、自分でもがきながら歩き続けた先に、きっと「許された」と思える日が来るのだと信じています。

神様も亡くなった人もペットも、直接には何も語ってはくれないけれど、心をこめて共に過ごした日々が残したくれたものを信じてもいいんじゃないかなっと思うんです。

だから今のところは、スピリチュアルナントカの先生も動物と話せるナントカさんも必要としていないので、どうぞ私以外の人を助けてあげてください

そりゃまぁたまには「愛犬は今何を考えているのか?」なんて気になったりもしますが、でも何十年も連れ添った夫婦だってお互い何を考えてるか100%はわかり合えないんですから、ペットの気持ちが全てわからなくても当たり前かな、なんて
4マルなんて「ったく、飼い主ウザイよな〜」とか思ってそうだし

ただ、もしもライカをペットセメタリーに埋めたら、生前とは全く違って性格になって・・・すごく優しく従順な犬になるとこはちょっと見てみたいかも
posted by 雨 at 10:01| Comment(0) | 日記
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